席を譲らなかった若者(らくだのひとりごと)


だいぶ話題になっているようで、とりあえずオイラも思ったことを書かねば!という使命感のもと書かせていただくことにします。



もし自分がその若者だったら。その老人の嫌味に屈するのはあまりに悔しすぎる。しかしそれでも結局次の駅で他の両に移ってしまうかもしれない。そう考えると、この若者が言いたいことをはっきりと述べたのには感心する。




もし自分がその老人だったら。自分のメッセージを反論できない反論で覆されて、かなり悔しかったと思う。他の両に移った(?)のも仕方ない屈辱だと思った。




二者の立場に経って考えてみたが、どうしても分が悪いのは老人のほう。↑で「メッセージ」という言葉を使ったが、メッセージというにはあまりに汚かった。伝えたいことは一緒なのに、どうしてあんな言葉しか選べなかったのかが残念だったと思う。あの状態では、少なくとも誰も良心的に席を譲ったりできない。席を譲っても、その人には善人としての満足感が残るだろうか?否。どんなに隠しても、「老人に席を譲らされた」という概念が残る。コミュニケーションに関して、日本人は本心を隠す傾向にある。でもだからといってこれじゃぁなぁ。仮にも老人側は席を譲って「もらう」側なのに態度が大きすぎたと思う。





この状態で、座ったままでいるという行為は『間違っている』のか。それがまず大きな問題だ。僕もバスでこういうシチュエーションにはしばしば出会うが、どうすればいいか迷って、結局何もせずに時が過ぎる。身障者とか杖ついてる老人にならすぐ動けるが、「高齢者」には動けない。それはなぜか。
「理由」が見つからないからかなぁと思う。だって、あの若者が言うとおりだもん。あの老人は歩けるのに。立ち続けは誰だって辛いよ。仕事してたり、部活してたり、寝不足だったり。それでも譲るべきなのか?理由は「老人だから」?・・・ごめん、それじゃ納得できない。


年功序列の概念が消えた今、儒教精神も一部で少しずつ消えているのかもしれない。いいことなのか悪いことなのかはなんとも言えないけど、昔の日本人とは変わってしまったんだろう。世代差の狭間で、今回は若者が勝ったという感じかな。







若者の発言は別問題だと思う。こんなときに年金の話とか持ち出すか?とか意見はあると思うけど、確かにそれが現実だ。どんなに汗かいて働いても自分のときの年金は少ない。そんな泣きそうな状況で、目の前に「ふてぶてしい」老人。こんな老人のために、俺は、俺たちは働いて、生きているのか?






考えてみてください。僕は苦痛に感じます。








感情論ですね。すいません。
でも、感傷的にならんといけん状況だと思いますよ。






まぁ若者の発言についてはこのくらいにして、こんなにこの記事が話題になってるのはみんながこういうシチュエーションに悩んできたからじゃないだろうか。僕もそうだし。
そして考えたのは、やっぱりコミュニケーションが大切だってこと。
「席譲ってくれませんか?」かましくてもいいじゃん、じいさん。じいさんは「老人」なんだろ?相手の儒教精神に呼びかけて、いい気分で譲ってもらいなよ。
「どうぞ」立ってるのちょっときつそうだったら、代わってあげよう。自分から声かければ、絶対優しい心が帰ってくる。「ありがとう」って言ってくれる。




頑張りましょう、コミュニケーション。